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日記アーカイブズ
時森 ししんさんの新着日記
東日本大地震からの復旧・復興を毎年追い続け、ダイバーシティメディアの市民チャンネル(コミュニティーチャンネル)で、「to Revive〜あの日から今日まで」という番組を放送している。
全国のケーブルテレビ30局以上での放送実績がある番組である。
今年も3月11日に、ダイバーシティメディアの鈴木淳予ディレクターと小林利尚カメラマンが、宮城県牡鹿郡女川町出島に取材に伺った。

この写真は、鈴木淳予ディレクターから送ってもらったロケの様子である。
出島湾から望む「出島大橋」
今年の3月11日は、14年前のあの日とはまったく違って、春の陽気の穏やかな光景。
キラキラと太陽の光が反射する美しい海が写っていた。
この日、ダイバーシティメディアでは、午後2時46分、館内放送にて東日本大震災が発生した時刻が知らされ、全社員で黙祷を行う。
ちょうど、吉田専務、和康専務、斎藤常務、奥出取締役、三沢局長との打ち合わせ中だったが、黙祷を捧げ、その後、14年前のあの時のことを語り合う。

2011年3月11日、朝、母はバスで仙台市の三越に買い物に行った。
自分たちはいつもの日常を過ごしており、自分は秘書室の前身である経営企画室の斉藤健室長と、ミーティングをしていた。
午後2時46分に、社屋が揺れ出し、いつもよりも大きく長く感じたのである。
揺れが収まってすぐ、全社員を社外の正面の駐車場に待避させた。
街中は全て停電で、放送機器も信号機も機能せず、車内テレビやラジオで情報を取った。

当時のケーブルテレビ山形は、無停電装置で社内は明るさが戻ったが、山形市内が停電になっていた為に、番組を伝送することができなかった。
停電復旧を待つために、泊まり込むスタッフ。

ムービーオンやまがたも、停電の為に、上映ができなくなる。
社員スタッフが泊まり込み、不測の事態に備えた。

3月なのに気温が下がり、雪も積もり、とても寒い夜となる。
山形県庁は、明け方まで電気がついていた。

仙台に行ったきり連絡がつかない母が心配だったが、弟家族と一緒に我が家で夕食を取る。
カップヌードルやパンなどを買い集め、懐中電灯の中での食事。
母のことだから、きっと仙台市のどこかの避難所に必ずいるとの確信があった。
母にとっては学生時代を過ごした仙台市。
宮城県生まれで、誰よりも仙台市のことを知っているので、自分はどこか大丈夫だと信じていた。


翌日、停電が復旧し、ケーブルテレビ山形に電気がもどる。
そこから、生放送を開始し、地元のスーパーや商店街の情報や交通情報などを、リアルタイムで伝えたのである。

昨年12月19日に女川と出島を結ぶ、出島大橋が完成し、開通した。


今回、ダイバーシティメディア制作チームは、14年目の3月11日の出島を取材する。


14年前に壊滅的なダメージを受けた出島が、長い時を経て再生してきている。
そして、橋が掛かったことにより、さらなる復興が期待される。
多くのものを失ったあの日、忘れてはならないし忘れはしない。
これまでの歴史を心に刻みながら、合わせて、未来に向けての新たな一歩を踏み出す時が来ているに違いない。
元記事:https://ameblo.jp/stokimori/entry-12889623735.html