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日記アーカイブズ
時森 ししんさんの新着日記
8月10日(土)、ちょうど40年前に、父と一緒に初めて照井光文さんとお会いした。
当時の照井さんは、ゼンセン同盟の山形支部を立ち上げ初代支部長に就任した方であり、当時の労働界では若きカリスマ的存在であった。
秋田県のご出身だが、愛知県で組合活動をスタートされたこともあり、その愛知訛りが、尚更カリスマ性を増幅していた。

当時、父は53歳、照井さんは43歳、自分は24歳であったと記憶している。
場所はホテルキャッスル。
山形市長選挙に出馬しようとしていた父が、各政党や各団体・組織の方々へ、様々なルートで支援要請を行っており、自分は父の秘書役として同席することが多かった。
そんな中で、とても印象的だったのが、照井さんとの出会いであった。

当時の政治の潮流は55年体制であり、自由民主党(保守)と社会党(革新)がハッキリ別れており、そこに中道と呼ばれる民社党が存在していた。
山形の政治勢力は、共産党・社会党を支援母体とする金澤忠雄氏が、7期28年間にわたり山形市長に就任した。
その6期目に自由民主党の公認候補として立候補したのが、自分の父であった吉村和夫であった。
当時は、山形市長を保守系に戻そうと、山形の経済界を中心に、必死に戦ったのだ。
結果的には、父は山形市長選挙に3回敗れ、4回目で当選したのである。
その道を進む中で、自分としては初めて知った組合という組織、そしてリーダーである専従組合員の方々。
まだ、連合に労働組合が統一される前の時代である。
知らなかった世界の方々との会話は、随行の自分としては驚きの連続であり、怖ささえ感じたのを覚えている。
まったく知らないから、不安で怖い。
ましてや、社会人経験も数年であり、労使関係も大学の授業の科目でしか知らなかった。
父と照井さんの間を取り持ってくださったのが、油川氏である。
今でもお世話になっている油川先生であるが、当時から、その人脈は途方もなく、多くの方々と父を出会わせていただいたのである。


40年ぶりの再会ということもあって、照井さんは亡き父の30年前の直筆のハガキを持ってきてくださった。
今も大切に保管していただいているとのことで、とてもありがたく、照井さんのお人柄が再認識できた。
当時、父は照井さんを「竹中半兵衛の様な人だ!」とよく話していた。
知略に富み、戦術戦略家である。
一方で、情に厚く、誠実な方である。

この日は山形市七日町の御殿堰の庄司屋さんで、そばを食べながら懐かしい話をする。
一方で、現在の政治や経済について、そしてダイバーシティメディアなどの話もさせていただく。
人生64年の中で、瞬きするくらいの瞬間の出来事であったが、不思議とあの関係性にワープしていく。
そこに真実と情熱を刻めた瞬間は、きっと永遠なのかもしれない。
そんな不思議な確信を持ち、再会を約束して別れたのである。
この光景を、父が天国から見ていたら、どんなことを思うであろうか…。
自分としては、40年前に聞きたかったことも今回教えていただき、様々なことを消化できた。
懐かしくもあり、亡き父の代役ができたと思えた時間でもあった。
油川先生、ありがとうございました。
元記事:https://ameblo.jp/stokimori/entry-12863208945.html