ダイバーシティメディアの全館放送。
「東日本大地震から、10年が経ちます。午後2時46分より黙祷を捧げます。起立して東を向いて準備してください。」と、桜井秘書広報室長のアナウンスが響いた。
2021年3月11日、あれから10年が過ぎた。
多くの被災者の皆さんへ、心からお見舞いを申し上げると共に、犠牲になられた方々には、衷心より哀悼の意を捧げる。
あれから10年後のこの日、ダイバーシティメディアでは、特番「あの日を想う〜東日本大震災から10年」を午後3時から放送し、その後リピート放送をしている。
10年間の復興の軌跡を捉え、被災地の今をお伝えしてきた番組「to Revive」や、追悼セレモニーなどを特別編成し、今回の特番を制作した。
さらに、東北のケーブルテレビ局の中で、被災された気仙沼ケーブルネットワーク、三陸ブロードネット、宮城ケーブルテレビの当日の様子を収録した映像も、3局からご協力をいただき入れ込んだ。
10年目のこの日も、鈴木淳予アナウンサーたちロケ隊は、気仙沼ケーブルネットワークを訪れ、現在の気仙沼の様子などを濱田専務からお話を伺う。
女川から、定期船に乗って渡る小さな島。
母の実父母も既に亡くなり、実兄妹も実家には住んでなく、母の義妹(自分の叔母さん)だけが住んでいた。
その母の義妹が、この出島の津波時の様子を撮影していた。
母の実家があった場所は、跡形もない。
当時、山形市は停電だった為、車のカーテレビで、刻々と入ってくる地震の被害と、津波の状況を見ていたのだ。
どこの民放とも物理的に津波の到達場所までカメラが行けず、撮影は難しくリアルタイムではオンエアーされなかった。
後日分かったが、むしろ、その地区のケーブルテレビ局が撮影した映像が、現場の様子をしっかり捉えていた。
当日の夜、仙台市に行った母は、山形には帰って来なかった。
自分は、きっと母のことだから、避難場所の体育館に行っていると確信できた。
案の定、翌日の昼ごろ、電話が一瞬繋がったのである。
そしてその翌日に、仙台市に迎えに行った車で母を確保する。
当日の夜のムービーオンの様子。
お客様には、何も危険やご迷惑は無かったが、停電でフイルムが途中で止まった為、いつ電気が通っても対処できるように、スタッフが数人で泊まることとなる。
電子鍵なので、停電でロックできなかったので、セキュリティーも鑑み、数人がムービーオンに宿泊する。
ダイバーシティメディアの前身のケーブルテレビ山形では、備え付けの自家発電システムで対応する。
東日本大震災当日の夜、10年前の山形県庁は夜中になっても明かりが灯っていた。
当時は、吉村美栄子知事が就任して、まだ2年目だったと思う。
翌日、停電が復旧して、ケーブルテレビ山形では、生中継をぶっ通しでスタートして、地域から集まる情報をタイムリーにお伝えした。
その後、東北の各地を巡り、東日本大地震の爪痕の大きさを知っていく。
当時の、岩手ケーブルテレビジョンの様子。
笹原社長と隣で、カップラーメンを食べているのは、当時の三陸ブロードネットの斉藤社長である。
食事が取れなかったとのこと。
その後、斉藤社長は体調を崩しお亡くなりになったが、この時は、様々な課題に前向きに取り組んおり、復旧復興に全力を傾注しておられた。
あれから10年。
気仙沼の海である。
気仙沼ケーブルネットの濱田専務や小松常務が、「あの時と今」について話して下さった。
この取材の様子は、5月放送予定の「to Revive」で観てほしい。
大地震、大津波、福島原発の大事故。
全てが未曾有の、未知の経験だった。
あの日を忘れずに、あの日を風化しないで、あの日の教訓を生かして、未来に進みたいと思っている。
この10年、多くの出会いと別れがあり、多くの物語が生まれた。
そして、東北はまとまり、未来に向かったと思っている。
実はコロナ禍も同じかもしれない。
今、まさに皆が協力し合い、前に進む時なのだろう。
元記事:
https://ameblo.jp/stokimori/entry-12661911264.html