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日記アーカイブズ
時森 ししんさんの新着日記
2014/03/16 12:38:32
失ったもの…。
3年前、東日本大震災が発生した時、夜中まで明かりがついていた山形県庁。
周囲は停電だった為、自家発電装置により、被災地対策や県民の安全確保を行っていた。
災害対策本部長に自らが就任し、陣頭指揮をとる吉村美栄子山形県知事。
まだ、何が起こったのか、十分に把握できずに朝を迎えた。
何かをしなければならないと、宮城県に思いは馳せる。
仙台市の避難所にいた母を迎えることもそうだが、何よりも、母の実家の宮城県牡鹿郡女川町出島…女川町から船で20分くらいに在る出島(いずしま)の状況が気になっていた。
亡き祖父母の家、今は叔母さんが住んでいる。
出島には渡れないが、石巻や女川町には、数日したら行けた。
弟は、複数回行っていた。
自分達も、まだ津波の臭いが立ち込める黄土色が永遠と続く世界に絶句する。
高速道路のパーキングエリアには、各地から続々集まっている消防士や警察、そして自衛隊員。
まさに緊急事態である。
時間が経つにつれ、出島の状況が解ってきた。
当時は、グランドに『SOS』と書いてあった小中学校があったのが出島であり、電話は通じないし、誰がどこにいるかも解らない状況であった。。
島の住宅は、全てが津波によって海水に浸った。
住宅は、引き波によって全てが持っていかれ全滅。
震災から約1年後に出島の住民が、仮説住宅へ30人くらい戻る。
震災から約2年後、ケーブルテレビ山形のカメラクルーが上陸して、船着き場の荷下ろしをしている叔母を写す。
叔母は、様々なテレビで取り上げられている。
仮説住宅は高台の学校側にあるが、カメラクルーは学校に入り、ピアノを撮影してくる。
母はこの島で生まれ、中学生までこの島のこの学校で勉強した。
しかし、ピアノはもとより音楽がなかったという。
いつしか、自分の夢は、『ピアノを出島の小中学校に贈ること』になっていたという。
亡き父と連名で、震災の約10年前に、夢を叶えて、生まれ故郷へピアノを贈った。
当初はグランドピアノを贈る予定であったが、船に乗らないとのことで断念した。
まさか、残っているとは思っていなかった。
今は、学校も閉校され、ピアノも弾かれることはないだろう。
しかし、約10年間は、出島にピアノの音が鳴り響いたのである。
女川町の原子力発電所である。
どんなことがあっても、福島の教訓を忘れずにいて欲しい。
あの日、自分達は多くの尊いものを失った。
命。家や庭や町並み。花や木。写真や本や家財道具。思い出や歴史。
でも、1番は、『平穏無事な家庭の団欒に抱かれている自分の心』のような気がする。
言い換えれば、『永遠に続くような、しあわせの時間』を失ったと思う。
何もかも、認められない時、それを受け入れるまでは時間がかかる。
今年、3.11に日が変わりすぐ、TBOLANの森友嵐士くんと、アンダーグラフの真戸原くんへ電話した。
彼らから救われた人が、どれくらいいたか分からない。
心から感謝である。
人は、知らず知らず、多くのものを失なう。
年を重ねれば、健康も含めて、ロストストーリーが多くなるのは当たり前。
だからこそ、どこかで得るものが必要なのだと思う。
それは、出会うことしかない。
人との出会い。
本や映画との出会い。
食べ物との出会い。
出会いは、得ることの基本である。
出会いの数ほど物語りがある。
そう。
今、ここからスタートである。
元記事:http://ameblo.jp/stokimori/entry-11794985012.html
周囲は停電だった為、自家発電装置により、被災地対策や県民の安全確保を行っていた。
災害対策本部長に自らが就任し、陣頭指揮をとる吉村美栄子山形県知事。
まだ、何が起こったのか、十分に把握できずに朝を迎えた。
何かをしなければならないと、宮城県に思いは馳せる。
仙台市の避難所にいた母を迎えることもそうだが、何よりも、母の実家の宮城県牡鹿郡女川町出島…女川町から船で20分くらいに在る出島(いずしま)の状況が気になっていた。
亡き祖父母の家、今は叔母さんが住んでいる。
出島には渡れないが、石巻や女川町には、数日したら行けた。
弟は、複数回行っていた。
自分達も、まだ津波の臭いが立ち込める黄土色が永遠と続く世界に絶句する。
高速道路のパーキングエリアには、各地から続々集まっている消防士や警察、そして自衛隊員。
まさに緊急事態である。
時間が経つにつれ、出島の状況が解ってきた。
当時は、グランドに『SOS』と書いてあった小中学校があったのが出島であり、電話は通じないし、誰がどこにいるかも解らない状況であった。。
島の住宅は、全てが津波によって海水に浸った。
住宅は、引き波によって全てが持っていかれ全滅。
震災から約1年後に出島の住民が、仮説住宅へ30人くらい戻る。
震災から約2年後、ケーブルテレビ山形のカメラクルーが上陸して、船着き場の荷下ろしをしている叔母を写す。
叔母は、様々なテレビで取り上げられている。
仮説住宅は高台の学校側にあるが、カメラクルーは学校に入り、ピアノを撮影してくる。
母はこの島で生まれ、中学生までこの島のこの学校で勉強した。
しかし、ピアノはもとより音楽がなかったという。
いつしか、自分の夢は、『ピアノを出島の小中学校に贈ること』になっていたという。
亡き父と連名で、震災の約10年前に、夢を叶えて、生まれ故郷へピアノを贈った。
当初はグランドピアノを贈る予定であったが、船に乗らないとのことで断念した。
まさか、残っているとは思っていなかった。
今は、学校も閉校され、ピアノも弾かれることはないだろう。
しかし、約10年間は、出島にピアノの音が鳴り響いたのである。
女川町の原子力発電所である。
どんなことがあっても、福島の教訓を忘れずにいて欲しい。
あの日、自分達は多くの尊いものを失った。
命。家や庭や町並み。花や木。写真や本や家財道具。思い出や歴史。
でも、1番は、『平穏無事な家庭の団欒に抱かれている自分の心』のような気がする。
言い換えれば、『永遠に続くような、しあわせの時間』を失ったと思う。
何もかも、認められない時、それを受け入れるまでは時間がかかる。
今年、3.11に日が変わりすぐ、TBOLANの森友嵐士くんと、アンダーグラフの真戸原くんへ電話した。
彼らから救われた人が、どれくらいいたか分からない。
心から感謝である。
人は、知らず知らず、多くのものを失なう。
年を重ねれば、健康も含めて、ロストストーリーが多くなるのは当たり前。
だからこそ、どこかで得るものが必要なのだと思う。
それは、出会うことしかない。
人との出会い。
本や映画との出会い。
食べ物との出会い。
出会いは、得ることの基本である。
出会いの数ほど物語りがある。
そう。
今、ここからスタートである。
元記事:http://ameblo.jp/stokimori/entry-11794985012.html